整備工場の数が少ない時代に商機を感じて起業した祖父。唯一のアドバイスは「借金をするな」だった、堅実な経営で強固な基盤を築いた父。そのバトンを受け取った私は、会社を「発展させること」に決めた。
小原自動車工業を創業したのは祖父の小原幸太郎です。父・務が二代目を継ぎ、私は三代目ということになります。
祖父は沼津町(当時)の鉄工所の息子で、11人兄弟の10番目でした。ベンチャー精神旺盛で、やる気溢れる人物だったようです。大正8(1919)年6月、18歳のときに遠い親戚を頼って上京し、警視庁自動車整備工場に入ります。そこで整備の技術を学び、4年後には有楽町に自動車整備工場を開業したのです。ところが、その年の9月、関東大震災が起こり、やむなく郷里の沼津に戻ってきました。驚くのは11月には、もう沼津で会社を立ち上げていることです。
いま日本には約8000万台の自動車があるといわれています。しかし当時は、全国に2万5000台しかなかった時代です。自動車は最先端の乗り物だったのです。そうした状況は戦後も続きました。祖父は整備工場が少ないのをチャンスにして、東京から名古屋にかけて行政関係や運送会社などを顧客に主にトラックの整備・点検を中心に事業を大きくしていきました。
このトラック整備がいまでも弊社の強みになっています。
前回のオリンピックが開催された昭和39(1964)年、長泉町に第二工場を新設しました。祖父は大変な喜びようでした。
それだけ事業拡大に強い意志を持っていたのだと思います。当然のように跡継ぎは長男である父だと決めていました。
父は大昭和製紙で野球をしていました。けっこう強いチームで、父もノンプロとして知られていたバッターだったのです。プロからの誘いがきたこともありましたが祖父に反対され、結局はノンプロで野球を続け、引退すると家業に就きました。
そんな自身の経験もあったからか、父は私には一度も「会社を継げ」という話をしたことがありませんでした。にもかかわらず、私はやがて会社を継ぐのだろうなと漠然と考えていたように思います。